『浅利慶太―叛逆と正統―劇団四季をつくった男』発刊
ストレートプレイ(芝居)、オリジナルミュージカル、海外ミュージカル、ファミリーミュージカルなど幅広いレパートリーの上演で老若男女にファンを持つ劇団四季。本書は劇団の創設者で演出家である浅利慶太氏の数々の功績に迫る一冊です。発刊にあたり、著者の梅津齊さんよりご寄稿いただきました。
書籍編集室 室長 小川敦子
日本現代演劇を一新した浅利慶太というダンディー
花の昭和一桁組といえば、昭和7、8年頃に生まれた一群の若手オピニオンリーダーのことだった。記憶では1960年前後から目につくようになり、その度に「何が昭和一桁だ」と吠えていた。
学卒後の私が、まるで唆されたように上京し、奇跡的に合格したのはアヌイ、ジロドゥ劇団と揶揄されていた四季だった。驚いたのは10名の創立メンバーは、1人を除く全員が私の嫌った花の一桁だった。まだあった。代表の浅利は、22歳の時『新劇』に対し全否定の論文を『三田文学』に発表していた。それは次のように始まっていた。「既成劇団の先輩のかたがた。僕らと貴方がたとの間には或る決定的な断絶があります。」浅利の想いは、自裁した師加藤道夫の想いを背負った分だけ、敵地に切り込むまだ前髪の抜刀隊の趣きがあった。
この浅利が、前年(1961年)日本生命が建設する欧米風の劇場、日生劇場の取締役に「太陽族」の石原慎太郎と共に抜擢されていた。弱冠28歳の二枚看板に、世間は「アッ!」と言った。劇場の開場を前に、浅利は自分たちをフランスの知的で華やかな演劇を上演する集団として、今一度認知させる必要があった。開場後は、四季が劇場の中核を担うことになる。この大仕事をこなす男は浅利慶太を措いていなかった。杮落としの8ヶ月前、四季は10周年記念公演に1ヶ月をフランス劇四作品の交互連続公演で埋めた。
その成功を背に浅利は日生劇場の演目と日程を決定した。それは開場2年目に早くもジロドゥの二作品でロングランを狙ったのだ。浅利はこれを見事に当てた。水の精の恋『オンディーヌ』と、17歳の幸薄き美少女の愛『永遠の処女』。だが、2作目の直前にシャンソン『越路吹雪リサイタル』を置いたところが憎い。これ以後越路吹雪は日生劇場をホームとし、やがて劇団四季の子会社の専属として日本一のエンターテイナーとなる。浅利の知性と感性が当代の日本人を緻密に捉えていたのである。同時に浅利は全劇団員にこれらの成果による一つの確信を植えつけた。これは後の彼の展望に大いなる飛躍的契機を与えた。1983年に始まる超ロングランミュージカル『キャッツ』もこうして浅利が仕掛けた成果であった。
梅津 齊