1章ソヌ(1)
鏡に映った自分を見る。深みのあるネイビーブルーのトム フォードのスーツ。白いシャツにロイヤルブルーのネクタイを合わせ、ベストの上にスリーボタンのジャケットをはおった。研いだナイフのようにぴたりと体に沿ったスーツは、空気のように軽く、鎧のようにしっかりと全身を包んでくれる。住み込みの家政婦パクさんの仕事は非の打ち所がない。特に洋服を扱う腕前は一級品だ。その辺のクリーニング店に預けるよりもきれいにシャツを洗い、正確な折り目をとってアイロンをかけ、色別に分けたスーツとシャツはひと目で見渡せるよう完璧に整理されている。なんとなく気持ちがざわつくときでも、整然としたクローゼットを眺めていれば落ち着いてくるほどだ。
新学期の講義初日。このいでたちなら学生たちに適切な第一印象を与えることができるだろう。昨年に続いて僕の授業を受講する学生はもちろん、今年入学した学生とも適度な距離を保ちたい。それにはかちっとした服装の方がいいことをこれまでの経験から知った。実年齢より若く見られがちな外見が近づきやすそうな印象を与えるせいか、学生たちから必要以上に興味を持たれることがある。だが面倒なことはごめんだ。童顔だと言われようが、鏡に映る三十四歳の自分は年相応に見える。
幼い頃から幾度となく聞かされてきた。影のある深い瞳。筋の通った高い鼻。すっきりとしたあごのライン。そして白い肌。自分の顔を見ていると、不意にあの人のことが思い出されて口の中が苦くなる。
「この子はまったく、なんてきれいな顔してるんだい。血は争えないっていうけど、ここまで父親にそっくりだなんて。お前はね、さかりのついた犬みたいになるんじゃないよ」
母方の祖母は僕を見るたび同じ台詞を口にした。そういうとき彼女の視線は、僕ではなくいつも自分の娘に向かっていた。孫は目に入れても痛くないと言うが祖母は違った。突然僕という厄介者ができたせいで一人娘の人生が台無しになったと信じる老人は、どこまでも冷たかった。祖母が一切恋しくないのはそのせいだ。僕の存在を災いだと考える相手を憐れんでやるほど、僕の器は大きくない。
鏡に映る自分の顔に、あの男の面影が重なる。今でも憎んでいるくせに、あの男が遺した金はしっかり使っているわけか。我ながら呆れて鏡から顔を背けた。去年、運良く大学に採用されて韓国に戻ってきたが、ソウルで家政婦付きの広い戸建てに住むなど、一介の教員にはとうてい無理だ。
枯れない泉のごとく毎年振り込まれる出版社からの印税がなければ、今僕が享受しているいくつかの贅沢を楽しむ余裕などなかっただろう。例えばシーズンごとに購入するトムフォードのスーツのようなもの。
全身をもう一度チェックしてから、フランス「ファイエ」社製の杖を手に取った。あの事故のあと、リハビリが終わる頃にオーダーしたもので、黒水牛の角を細工した優雅なデザインのグリップが特徴だ。長年使い込んだ今では、僕の手にすっかりなじんでいる。今日に限ってなんとなく脚がうずくところをみると、このあと雨でも降るのだろうか。窓の外の空は泣きたくなるくらい透きとおっている。
愛車のボルボは定期点検でディーラーの整備工場に預けているため、仕方なく通りに出てタクシーをつかまえた。初講義は午前十一時から。三十分もあれば余裕で着く距離だ。少しくらい渋滞しても大丈夫だろう。シートに身を預けてしばらく目を閉じていると、いきなりトタンを打ち付けるようなけたたましい音がして目が覚めた。大粒の雨がタクシーの窓をたたきつけている。どうりで朝から脚がうずいたわけだ。
乗り込んだ瞬間から僕が目を閉じていたせいか、ずっと黙っていた同い年くらいの運転手が話しかけてきた。
「いきなり降ってきましたね。にわか雨のようですけど、傘はお持ちですか?」
「いえ、雨が降るとは思わなかったので。これくらいなら濡れて行きますよ」
「今朝のニュースで雨の予報が出てはいたんですけどねえ。すぐにはやみそうにないですね。でもまあ走って行けば大丈夫だと思いますよ。校門の前で止めましょうか?」
そう言って何げなく僕の方を見た運転手は、膝に立てかけた杖が目に入ったのか、しまった、という顔をした。僕は気づかないふりをして窓の外に顔を向けた。
にわか雨ではなく台風だったとしても、運転手が言うように走って行くことはできない。それとも、杖をつきながら壊れたロボットのようによたよたと走ってみるか? そんな自分の姿を想像して苦笑がもれそうになったが、ぐっと唇を噛んだ。事故に遭って十五年だ。これくらいは笑いとばせるようになった、というより、平然としていられる程度には強くなった。タクシーのドアが開いて雨が降り込んでくるにもかかわらず、運転手は早く降りろとせかさなかった。さりげない気遣いがありがたくて釣りはいらないと言い、杖を持って車から降りた。雨はタクシー運転手とは違い、こちらの事情なんておかまいなしに激しく降り続いている。
左手にブリーフケースを持ち、右手で杖をついて雨の中を一歩ずつ歩き始めた。人文学部の講義棟までは校門から歩いて十五分。その中に僕の研究室があるのは不幸中の幸いだ。タオルで拭けば濡れねずみのような姿にはならずに講義室に向かえるだろう。僕は冷たい雨に打たれながらキャンパスのグラウンドを横切って歩いた。周囲に誰もいないのがせめてもの救いだ。
あちこちにできた水溜まりを避けながらゆっくり歩いていると、後ろから声がした。
「あの、よかったら傘、一緒に入りませんか?」
驚いて声のする方を振り返ると、頭上にさっと傘がさしかけられた。曇ったグレーの空にいきなり現れた真っ赤な傘のおかげで、僕の周りだけが突然明るくなった。その下に一人の女性が立っている。少女から大人の女性へと変わる境目にいるような初々しい雰囲気。だが、ふんわりとウェーブのかかったロングヘアとほっそりとしたその顔を目にした瞬間、僕の全身から血の気が引いて、つい杖を手放してしまった。
「あっ」
彼女が落ち着いた様子で腰をかがめて杖を拾い、僕に渡してくれた。
「いきなり声をかけちゃって驚かせてしまいましたね。すみません」
「い、いや」
震える手で杖を受け取った僕は努めて平気なふりをしたが、動悸は激しくなるばかりだった。頭の中は真っ白で言葉が出ない。ご親切に、ありがとうございます、そう言いたくても声にならない。失礼な人間だと思われそうだが硬直して何も言えなかった。
「急に降ってきましたね。講義室に向かってたんですけど、雨に濡れながら歩いていらっしゃるのが見えて。どちらの建物まで行くんですか? 私は人文学部の方なんですが」
ふらつきながら歩いている僕の何倍もはきはきと話す彼女は、ブラックジーンズに白いセーターを着て、真っ赤なコートをはおっている。足元はスニーカーなのに、身長一七八センチの僕がかがまなくても大丈夫なくらい傘を高く掲げているのを見ると、相当背が高い。一重の大きな目は澄んでいて、少し丸い鼻先も愛嬌があった。
なんとか平静を取り戻した僕は礼を言った。
「同じ建物に向かっています。助かりました。ちょうど困っていたところです……」
彼女はにっこり笑った。
「同じ建物なんですね。私、入学したばかりでよく分からないんですが、場所を教えていただけますか?」
そう話す彼女の眼差しは、これまで会った他の女たちとはどこか違うような気がした。例えば、僕の顔を見て輝いた目が、そばにある杖を見たとたん急に冷ややかになったり、さらには哀れむような一瞥を投げたりした女たちとは明らかに違った。限りなく透明な彼女の眼差しからはどんな感情も読み取れない。
「あそこの、グラウンドの観客席と向かい合っている建物です。ここをまっすぐ行ってください」
「あ、思ったより近いんですね」
会話はそこで途切れた。ぎこちない会話を無理に続けたところで雨の音にかき消されるのが関の山だ。雨足は徐々に強くなり、無言で歩く僕たちの周囲が暗くなっていく。大きくて赤い傘の下で、僕たち二人だけがいるような気がした。雨で緩んだ土の上に杖をつくと、ずぶりと中に沈み込む。それを引っ張り上げて、また同じ動作を繰り返す。今にもあふれそうな感情を僕はやっとのことで抑えていた。
「ここです。ありがとうございました」
建物の入り口に到着すると同時に礼を言った。彼女から一刻も早く離れたい気持ちと、もう少し一緒にいたい気持ちが交互に湧いてきて僕を揺さぶった。彼女は笑顔を見せた。笑うと鼻に縦じわができる。思わず触れてみたいと考えた自分に驚いた。
「いえ、それでは、風邪引かないようにしてくださいね」
彼女は傘の水気を何度か払ってから、講義室に向かって歩いて行った。
研究室に入ると、机の前に座っていた助手のソンチョルが驚いた顔で立ち上がった。
「先生! 大丈夫ですか? ずぶ濡れじゃないですか」
「ああ、いきなり雨に降られてね。ドライヤーか何か置いてあったかな?」
「確かあったと思います。探してみますね。それより、まずはお茶でも淹れましょうか?」
「助かるよ。ちょっと寒けがする」
ソンチョルは濃い眉をひそめながらすぐにタオルを持ってきた。僕より背は低いが頑丈そうなソンチョルは、昨年から僕の助手として働いている。山賊のような外見とは違って繊細で優しく真面目な性格だ。去年の春、彼が学費を稼ぐためにアルバイトを三つも掛け持ちしていることを偶然知った僕は、彼の事情をくんで助手として雇うことにした。そのためか、必要以上に忠誠を尽くそうとする彼に困惑することも時々あるが、基本的に善良で礼儀正しい青年なので目をかけている。
ソンチョルが見つけてくれたドライヤーで濡れた髪と服をある程度乾かしてから、僕は出席簿と教材を持って講義室へと向かった。ドアを開けて中に入ると、それまで騒がしかった講義室が一瞬にして静かになった。
「わ、すごいイケメン!」という声が聞こえた。あちこちでクスクス笑う声やささやき声がしたが、僕は気にせず教卓まで歩いた。つまらないリアクションには慣れている。陳腐な評価だ。若い頃はこんなことを言われると顔が赤くなり、多少は自惚れたりもしたものだが、年を重ねてそういうこともなくなった。
僕は教卓に出席簿と教材を置いて言った。
「十九世紀の英詩を読む授業を始めます。僕の成績評価が厳しいことを知らずに来た人も多いと思いますが、難しい授業にチャレンジするみなさんのやる気は高く評価します。では、みなさんの顔と名前の確認がてら、出席からとりましょうか」
学生たちは自分の名前が呼ばれると、そっと手を上げたり、ひょこっと頭を下げたりした。英文科の選択科目は受講生のほとんどが女子学生で、その中に何人か男子学生が交じっている。
「キム・ジア」
僕がそう呼ぶと、後ろから二列目に座った学生が手を上げた。遠くて顔がよく見えない。
「キム・ジアさん?」
もう一度呼んで出席簿から顔を上げた僕は、息が止まりそうになった。先ほどグラウンドで傘をさしてくれた彼女だった。長い髪に白いセーターと真っ赤なコート。彼女も僕を見て驚いた様子だったが、すぐに笑顔になった。だが僕の方はそれに応えることはできなかった。狭い傘の下ではなく、こうして正面から彼女を見てしまうと、もはや否定することは不可能だった。僕は心の中で叫んだ。
「アラン、どうして君がそこにいるんだ!」