シリーズ連載
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私が彼女の本を初めて読んだのは、十年ほど前であったろうか。エッセイ『母さんと恋をするとき』(心の散策社、二〇一二)が最初であったように記憶する。この本はイム氏のお母様のことが書かれたもので、母と娘、育児、家族ということについての率直な語り口が印象的であった。彼女は作家となって以降、毎年一、二冊ずつというペースで本を出してきており、小説、エッセイ、旅行記など、ジャンルも多彩である。自分に正直であること、自分を大事にすること、仕事に誠実であること。彼女の文章にはいつもそうした生き方への励ましが込められている。職場体験もあり子育てもしてきた作家として、ラジオの人生相談コーナーなどでもおなじみである。
私が『やさしい救い』(『リスボン日和』原題)を読んだのは、私の母の終末期医療の病床の窓際で、私の母との最期の時間となるであろう(そして実際にそうなった)数日間でのことであった。海辺の病床の窓から差し込む光を背に、ベッドに横たわる母の隣でゆっくりとこの本を読んだ。そして、家族ということについて考えるとともに、遠い国、ポルトガルのリスボンのことについても考えた。美しいまちリスボン。私はこの本を母の隣で読みながら、私の心に平安を与えてくれたこの本に感謝し、また、何一つ、私に苦しみや葛藤を残すことはなかった母にも感謝した。
この本を翻訳したいと思うようになったのは、それからほどなくして、新型コロナ感染症で日本中が大騒ぎとなり、外出がままならなくなった頃のことであった。人々が内にこもらざるをえなくなった中、私は母の隣で読んだこの本を日本で紹介できればと思った。韓国にせよポルトガルにせよ、美しいまち、やさしいまちがこの世から消えたわけではない。インターネットで誰しもがリスボンを旅することができる時代、この本を多くの人に読んでもらえばどれほどいいだろう、世界に出られないときだからこそ、別の形ででも遠い世界を旅するのもよいのではないかと、ゆっくりと翻訳を始めたのであった。出版のあてがあるわけではなかったが、しばらく時間が経つ中で、日之出出版さんが声をかけてくださった。こういうことには縁というものがあるものなのであろう。
私は子供の頃からリスボンに憧れていた。リスボン、という名前だけでも美しいと思うほどに、憧れていた。こうやって、本書を送り出せることを嬉しく思う。
『リスボン日和』あとがきより抜粋
熊木勉(くまき・つとむ)
富山県高岡市生まれ。天理大学外国語学部朝鮮学科、崇実大学校大学院国語国文学科碩士課程および博士課程修了。高麗大学校日語日文学科助教授、福岡大学人文学部東アジア地域言語学科教授を経て、現在、天理大学国際学部韓国・朝鮮語学科教授。専門は韓国・朝鮮近現代文学。著作・翻訳として『朝鮮語漢字語辞典』(共著、大学書林、1999)、『太平天下』(蔡萬植:共訳、平凡社、2009)、『思想の月夜』(李泰俊:単訳、平凡社、2016)等。主要な論文に「金璟麟のモダニズム—植民地期の詩と詩論を中心に—」(『天理大学学報』、第74巻第1号、2022)、「李泰俊の日本体験―長編小説『思想の月夜』の「東京の月夜」を中心に―」(『朝鮮学報』、第216輯、朝鮮学会、2010)、「太平洋戦争下の朝鮮における抒情詩の姿(上)」(『福岡大学研究部論集』第6巻A;人文科学編第6号、2007)等。
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