シリーズ連載
イム・キョンソンは小さな機微に敏感に反応できる作家だ。エッセイストとして、小説家として、どの作品を書いていても、その軸はブレない。
『ホテル物語』は、年末の閉館を控えた「グラフホテル」という架空の空間を舞台に繰り広げられるオムニバス形式の短編小説集だ。登場人物たちはそれぞれ大切な思いを抱いているが、その気持ちをいつまで保ち続けられるかわからず、悩みや不安を抱えながら日々を過ごしている。
「グラフホテル」は、創業者が自分のこだわりを思い残すことなく実現し、経営してきた場所だ。自分の思いを維持できなくなるくらいならいっそのこと閉館してしまおうと決めてしまった創業者の考えと自分の思いを大切にしようとする登場人物たちの心が静かに響き合う。
物語は大きな事件が起きることなく進んでいく。いつまで仕事を続けられるかわからないなかで、どういう作品をつくるべきか悩む映画監督、好きな相手との危うい関係に煩悶する男、これまで築いてきたルーティンを守りたいホテルメイド、終わらせたくない恋愛に苦しむドアマン、お金と成功を求める人々を冷静な目で見ている若手芸人。これらの人物たちは、周りの空気や相手のちょっとした心の変化を感じ取りながら、大事なものを失わないために自分を微調整していく。周りに影響されながらも自分の居場所に居続けようとする登場人物の目立たない努力を、著者イム・キョンソンはていねいに捉えている。
周りに流されず、自分らしさを守り抜こうとする登場人物たちのまっすぐな心を、揺れ動く現代を懸命に生きる人々に届けたい。そう思って、今日もイム・キョンソンの新作『そっと呼ぶ名前』(仮題)をコツコツと訳している。
すんみ
翻訳家。早稲田大学文化構想学部卒業、同大学大学院文学研究科修士課程修了。訳書にチョン・セラン『屋上で会いましょう』『地球でハナだけ』『八重歯が見たい』(以上、亜紀書房)、キム・グミ『あまりにも真昼の恋愛』『敬愛の心』(以上、晶文社)、ウン・ソホル他『5番レーン』(鈴木出版)、キム・サングン『星をつるよる』(パイ インターナショナル)、ユン・ウンジュ他『女の子だから、男の子だからをなくす本』(エトセトラブックス)など、共訳書にイ・ミンギョン『私たちには言葉が必要だ』(タバブックス)、チョ・ナムジュ『彼女の名前は』『私たちが記したもの』(以上、筑摩書房)などがある。
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